【親父の雑感】息子と板妻への思い

コラム

駿府城公園と静岡34聯隊への思い

静岡市民には馴染みの深い駿府城公園、私は小学生のころ父親に連れられてよく駿府城公園内に有った児童会館に行きました。

児童会館内には鉄道模型のジオラマや本物の蒸気機関車が展示されていたり、プラネタリュムや映画館があったり、十分楽しむことができる施設でした。

私の父親は戦争体験者です。戦争中は南方のラバウルに居たそうですが、細かい話は殆どしませんでした。「鉄砲を撃った事はあったの?」と聞いても殆ど撃った事はなかったらしく、戦争の事はむしろ自宅にあった戦争の写真集(静岡連隊特集?)を見て知る事のほうが多かったと記憶しています。 その写真集の中に、戦争当時、駿府城公園に「静岡歩兵34聯隊」があり、その当時の訓練風景、兵舎群の様子、当時の静岡市内の様子や一般市民の生活風景等を見る事が出来ました。

今の巽櫓がある付属中学前の道だろうか?何処かでの戦勝記念なのか?などよくわからない写真や、沢山の市民の提灯行列の人だかりが出来た戦勝気分に酔いしれた人で道が埋め尽くされ賑わっていた写真など今でもはっきり覚えています。

第二次大戦を知る人にとって、駿府城公園と34聯隊はとても馴染みのある所ではないでしょうか。そんな34聯隊は、戦後の昭和25年に創設された警察予備隊に組み込まれました。警察予備隊は昭和29年に自衛隊となり、昭和37年陸上自衛隊の大改編が行われ、5個方面隊、13師団体制が確立し、この時第34連隊が誕生しました。

旧静岡歩兵34聯隊と同じ番号の連隊を静岡へ、という県内有志の積極的な誘致運動があり、昭和37年1月18日、市民の熱烈な歓迎を受けて静岡県御殿場市板妻へ移駐し、ここに陸上自衛隊34普通科連隊が誕生しました。今の駿府城公園に当時の面影はありませんが、東御門をくぐりそのまま公園の外周を市民体育館側に歩いて3分位の右側の芝広場の奥に34聯隊の記念碑が建立されています。 私たち静岡自衛隊家族会は毎年春と秋の年2回、34聯隊の記念碑周辺の清掃奉仕活動を行っています。

板妻(34連隊)駐屯地について

私の息子はこの板妻34連隊の重迫中隊に配属されています。

自衛隊の事を記事にまとめる事について、どこまで公開していいものか迷いますし、息子に聞いても自衛官の「守秘義務」がある為、多くを聞き出すことはなかなか難しいものです。

ここでは、私が今まで見たこと感じた事を差障りの無い範囲で語ります。

まず、板妻駐屯地は「橘連隊」と言われるほど「軍神 橘中佐」で有名な駐屯地です。板妻の正門をすぎると、まず目に入ってくるのが橘中佐の銅像です。

橘中佐は歩兵34聯隊大隊長として、明治37年8月31日日露戦争当時、遼陽の戦いに参加し壮絶な戦死をとげ、以降軍神として尊崇されてきました。その橘中佐の精神を脈々と受け継いでいるのが板妻駐屯地(通称:橘連隊)です。

10年以上前まで板妻駐屯地は、駿府城公園の34聯隊記念碑周辺の清掃活動を精神修行の一環として行っていたそうです。

板妻駐屯地は普通科連隊ですから「実戦部隊」です。もし有事の際には真っ先に実践に投入されるでしょう。今は平時ですが、実戦を想定した訓練は日々行われています。また災害活動にも積極的に投入されます。静岡県内の第1次災害時の場合、板妻駐屯地が県内をカバーします。

静岡市内の救援活動は「重迫中隊」が担当します。毎年秋には、重迫中隊が静岡市役所の「危機管理課」のバイク隊と合同で防災訓練を行います。

危機管理課は東北沖地震の教訓から創設された部署です。バイク隊は車では進入できない災害地への現地情勢確認の為の偵察隊の役割を担います。

また、バイク隊の隊員は市役所の職員だけで構成されています。隊員になる為の資格は…それほど厳格でなく…バイクが好きだから、バイクに乗るのが上手だから…位で、市役所のいろいろな部署から有志で構成されたそうです。

彼らも自衛官と同じで日頃から訓練は怠らず、その成果で、今では皆がモトクロスライダー並みに上達した「ライダー達」です。勤務外での訓練お疲れ様です。

そんな「市役所危機管理課」と「板妻重迫中隊」との合同訓練は1日目に合流~進入進出訓練などを行います。その日は市内西ヶ谷の公民館に宿泊し、翌日の本番に備えます。危機管理課のバイク隊隊員約10名位と重迫中隊の隊員(約40~50名位)は訓練後懇親会を行います。

そこへ私たち自衛隊家族会と自衛隊協力会メンバー有志数名で激励に行きます。懇親会はお酒も入りますので若い隊員たちの一発芸やら、訓練の話やら、部隊のことやらで結構盛り上がり、みんなととても打ち解けた楽しいコミュニケーションの場になります。 そして、翌日は本番の防災訓練を行い、その日のうちに撤収・帰還します。

余談ですが、ここ2年続けて市役所主催の「駿府城公園クリーン作戦」清掃活動が行われました。清掃活動は市職員や市民団体が参加するボランティアによるもので、私たち家族会も参加しました。この清掃活動は、34連隊は災害救援活動の訓練もかねて参加します。参加隊員は部隊の隊員の約半数近くが参加するほど大規模な訓練です。駿府城公園の巽櫓(翌年坤櫓)の壁や、お堀の石垣をロープを使って清掃したのがした34連隊のレンジャー隊員です。

34連隊のベースキャンプは、清水から日本平へ向かう旧道沿いの公園の上段平地にテントを張って設営します。訓練終了時の夜は市役所の担当者・バイク隊・自衛隊諸団体・もろもろの招待者と自衛官での懇親会が始まります、我々家族会も約10名ほどで参加しました。 本当に自衛隊とお酒は切り離せませんね!!

私の息子が所属している重迫中隊について

私の息子は、重迫中隊に所属しています。

まず「迫撃砲」について説明します。簡易な構造からなる火砲で、高い射角をとることから砲弾は大きく湾曲した曲射弾道を描きます。 少人数で運用でき操作も比較的簡便なため、砲兵ではなく歩兵の装備であることが一般的で、最前線の戦闘部隊にとっては数少ない間接照準による直協支援火器の一つです。 低い命中精度や短い射程といった短所もありますが、軽量で大きな破壊力をもち、速射性が高く、安価で生産性に優れるなど、多くの長所を有しています。そのため、かつて師団砲兵の標準的な装備であった105-122mmクラス榴弾砲が120mm迫撃砲に更新されつつあります。このことも本砲の有用性を示しているといえます。 自衛隊でも81mm及び120mm(自走式でない)の迫撃砲を中心に広く使用されています。

私たち家族会もこの重迫中隊の射撃訓練を2回見学に行きました、富士総合火力演習での迫撃砲の射撃は近くで見られないこともあり、迫力はそれほど感じませんが、重迫の射撃訓練では、車3台で陣地に侵入し迫撃砲3基の設置から射撃までの一連の動作を見学できました。一番近い火砲の手前約10mあたりにいたため、発砲時の轟音は耳栓をしていてもすさまじく、さらに両手で耳を覆わなければいけないほどでした。息子も訓練に参加していたのですが、中隊長の計らいですぐ近くで見学することができました。

射撃訓練見学後は昼食に自衛隊の「戦闘飯」を頂きました。缶詰の戦闘飯ではなく見た目はパパッとライスにレトルトのおかずでした。昼食前から炊飯用車両でこのパパッとライスを湯煎してくれていましたが、ご飯がカチンカチンで硬くて食べられた物ではありませんでした。そんな様子を察して、中隊長が「ご飯のうえにおかずのせてかきまぜながらご飯を柔らかくしてから食べてみてください」とアドバイスをくれました。その通りにやってみると確かにご飯は柔らかくなり、それなりに美味しく戦闘飯を頂くことが出来ました。なかなか楽しい体験でした。

食後は、迫撃砲で撃った砲弾の着弾点と着弾点を指示する測量班の様子を、場所を移動して見学しました。

ちなみに息子は、この測量班指示をする部署でした。

この様に中隊の日頃の訓練の様子は滅多に見学できません。しかし、どの駐屯地にも毎年記念祭があり、そこで日頃の訓練の一端を見る事が出来ます。 御殿場市内には板妻駐屯地以外に滝ケ原駐屯地と駒門駐屯地があり、毎年4月には一週間おきに、どこかの駐屯地が記念祭を行っています。入場は無料ですから、是非見学をしてみてください。

レンジャー訓練について

息子は入隊して8年になります。以前よりレンジャーの話題をする時、あんな苦しい事は出来ないと否定していましたが、5年くらい前に災害訓練に重迫中隊が西ヶ谷に前泊で来ていつもの様に激励に行った時、息子の上官から「息子さんがレンジャー訓練に行きますから部隊の帰還式典に応援に来てください」と言われ、親としてはまんざらではなく、楽しみにしていました。

後日息子が自宅に帰ってきた時にその話をしたところ、息子曰く「初めはその気になっていたが、やはりどう考えても無理だからやめた」との事でした。 そんな事があってから2年後、いつも帰ってきているお盆に都合があって帰れないとの連絡がありました。実はその時に私たちには何も言わないで、レンジャー訓練に参加していました。なぜ私たちに黙っていたかと聞くと「心配させたくなかった。あまり期待させてもだめだったら申し訳ないから終わるまで黙っているつもりだった。」とのことでした。

訓練の実施は9月初旬頃だと思います。訓練前にレンジャー訓練に耐えられるかどうかの適性検査があり、それに無事合格してから約3カ月の訓練が始まりました。

訓練についての内容はくわしくは教えてもらえませんでしたが、印象に残っている事は訓練が始まって半月位後の「ゴメン、訓練に耐えられないかもしれない。諦めて帰るかもしれないから、その時は勘弁してな。」と云うLINEでした。私は、「無理する事はない。ダメだと思ったらその時は速やかに諦めな」と伝えました。「諦めないでガンバレ」なんてとても言えませんでした。 また、「色盲」はレンジャーにはなれないとの事でした。なぜなら爆破訓練では配線コードの色が分からないと爆破は出来ないからとの事でした。

私の中で一番関心があったのは「ヘビやカエルやニワトリ」を食べる事でした。

どう云う風に食べたの?生で?といろいろ聞いてみたところ「ヘビは火を通してから食べたけど、美味しくない。」との事でした。

ロープを使った訓練については、後で上官に聞いた話では、「息子さんはロープはとても上手で、一発で合格していましたよ」との事。今思うと息子は家に帰ってくるとよくクライミングジムに行っていました。このレンジャー訓練の為にやっていたのかと感心しました。

訓練も終盤になってくると、3日3晩不眠不休での訓練があるとの事です。40㎏ほどの荷物を背負い、何十キロも行軍しながらの訓練です。 この訓練は伊豆の山中で行い、訓練最後の前日にトラックに全員が乗って、御殿場の東富士演習場へ行き、そこから駐屯地まで徒歩で帰還します。駐屯地に帰還すると、隊員の所属の各中隊全員が出迎えます。私たち家族も駆けつけ、息子の労をねぎらいました。

最後になりますが、私たちは命がけで日本を、家族・友人・恋人を守ってくれるあなたたちを誇りに思っています。

すべての自衛官の健康と健闘をお祈りしています。

(投稿:MSD)