【報告】板妻駐屯地研修2023/8/22

イベント

快晴、微風,まだそれほど暑くはなく、むしろ心地よい時間の朝8時30分に静岡駅南口より、私たち家族会総勢9名に引率者募集案内所の伊藤所長、早田副所長の合計11名で御殿場市の板妻駐屯地に向け出発しました。
今回の目的は、「静岡市内に有った旧静岡34聯隊の歴史と現在の板妻駐屯地の日頃の災害活動を知ろう」です。
10時前に到着し、板妻の広報課長の市村氏案内の下に資料館内にて板妻駐屯地の国内外での人道支援や災害救援活動の実績、種々の救援活動をビデオにて解説をして頂きました。
板妻駐屯地は、静岡県内全ての地域の災害救援活動を行っています、因みに静岡市は第一中隊が救援に当たります。
ビデオ内では昨年の8月の台風での被害に遭った、清水区の興津地区の映像を観ながら解説を頂きました。
8月酷暑の頃の災害でした。清水地区の飲料水の供給源である興津川上流の取水口が流木等により塞がれた為、清水区内の多くの地域で断水となり、その影響で住民の方たちが約一週間以上にわたり、生活に不便を強いられるという状況でした。
災害発生当時、板妻駐屯地より救援隊・給水車等が何台も派遣され、また災害ヶ所の興津川取水口の流木撤去作業は三昼夜ほど掛った難作業だったとの事でした。
その後、清水区内のゴミの撤去作業やまた、清水区以外の川根町の奥深い山間地域での災害復旧活動を行いました。
次の解説に移る前の質問時間の時、市村課長が…リップサービスではないと思いますが(笑)
「今回の災害活動に、私たちの若い隊員たちは疲れたとか、辛いとかの愚痴一つ溢さずやってくれ、危険も顧みず一日でも早く復旧しようと寝る間も惜しんで皆が自ら進んで頑張ったのには、ビックリしました。この様な子達をもっているご父兄の皆さんはとても誇りに思ってください」と言っていました。
板妻の隊員には静岡市内の出身者が多数います、それを聞いて私たちも嬉しく思いました(^^♪)
他海外での人道支援活動等の実績解説を受け人道支援、災害救援活動の解説が終わり、同じ棟内の資料館に見学に行きました。


説明が遅れましたが、板妻の資料館建物だけは国費で建てたのではなく個人の方達の私財によって建てられたとの事です、元々は俗称歩兵34連隊と言い、この34連隊と言う名称は戦前静岡市の駿府城公園内に有った「静岡34聯隊」であります。この34の番号を引き継いで欲しいと云う、地元からの熱烈な要望が、実現して現在に至ったと云う経緯があります。その時の有志団体の私財により資料館を建てたとの事で、このような事は全国でここだけとの事です。
この資料館内には、主に橘周太中佐に関連した資料が展示されています。橘中佐は明治時代「日露戦争」の最中、34聯隊を大隊長として指揮し、遼陽の戦いで戦死、その後「軍神」と祀られている方です。
橘中佐は戦闘中6発の銃弾を体に受けその場に伏したところを岡田清一軍曹が救護しました。
その後、この岡田清一軍曹は74歳まで長生きされ、岡田氏の口伝により橘中佐の功績を世に伝えられたとの事です。
そして、その岡田氏のお孫さんは静岡市内に在住され毎年1回は板妻を訪れるとの事です。
災害救援活動についての説明、資料館内の解説付き見学が終わり、橘中佐記念銅像前での記念撮影等を終え駐屯地を12時頃出ました。


その後昼食は駐屯地内ではなく同じ御殿場市内の「時之栖」でアルコールを伴う皆さんの慰労・親睦会を細やかに楽しく行い帰静しました、静岡には午後4時頃につきました。
今回の板妻駐屯地研修は、普通科が中心で、他の野戦特科、高射機特科、機甲科、航空科の様な派手な装備がある訳ではありません。資料館はどの駐屯地にも有ると思いますが、まあ一言で言うと地味な駐屯地です。
でも、今も板妻駐屯地を「橘34普通科連隊」と言われる所以は、戦前戦中「静岡34聯隊」は最強の軍隊と恐れられ、又「橘周太」中佐が当時から人望に厚く自ら敵中に突っ込んで行く勇敢さ、教育の熱心さ、柔剣道への情熱さ等々の伝統を今でも板妻駐屯地が引き次いでいます。
今回の研修で、若き隊員の皆さんの活動の情熱が、橘中佐の情熱を脈々と受け継いでいる気がしました。